東京の電車の中に、究極の「無」を見つけた気がした
久々にブログを見てたら下書きにあったので更新。
1. 事の発端
飲み会帰りのある日。
ラッシュが落ち着き、ちらほら立っている人がいる程度の夜の通勤電車内。
対面に座っている40前後のババアが、その隣に座っていたオッサンをいきなり罵倒しだした。
「さっきからジロジロ見ないでくれます?不愉快なんですけど!」
「あんた通勤中でしょ?何考えてるんですか?気持ち悪い!」
極めて冷静だが力強くよく通る声だった。
あわや痴漢かもしくは冤罪騒ぎかと一気にヒリつく。
だが直後にその考えは打ち砕かれる。
そのババアの目が健常者のそれではないのだ。
そもそも標的になったオッサンは全く怪しい動きを見せていなかった。
視線を動かすわけでもなくぼーっとした顔で普通に座っているだけだった。
ああ統合が失調しているお方や... 見えちゃいけないもんが見えてるんや...と気づくまで5秒とかからなかった。
2. 無反応のオッサン
・おっちゃん不憫やなー
・喧嘩にならねえといいなー
・俺が標的になる前に逃げよっかなー
・でもせっかく座れたしまだ最寄りまで遠いしなー
と他人事のように色々考えた。
ババアはよくわからない論理でオッサンの罵倒を続けている。
周りの人間は車両を移るか見て見ぬふりをしている。しかし何かがおかしい。
当事者のオッサンが全く反応しないのだ。
強張った顔をした意識的なシカトではない。
本当に聞こえていないかのように、先ほどと同じ「全てこの世は事も無し」とでも言いたげな平和な顔で微動だにしない。
目を開けたまま寝てるのか?耳が聞こえないのか?それにしてはババアがヒートアップしていて起きないor気づかないのはおかしい。
その異様な光景が次の駅に着くまで続いた。
駅に着くやいなや、オッサンは本当にそこの駅で降りることが決まっていたかのように落ち着き払って自然な笑顔で降りていった。
しかしその駅は乗り換え駅でもなく、住宅も少ない中心部のオフィス街で、この時間に降りる人は殆どいないような駅だ。
逃げたのか目的地へ向かったのか。その後のオッサンの行方は分からない。
3. 東京という街と「無我の境地」
オッサンが消えてやっと黙ったババアに目をつけられないようにしてなんとか最寄り駅につき、先程の出来事を考察した。
思うに、あれはオッサンが長年の東京暮らしで身につけた「無我の境地」なんじゃないかと。
1年半東京で暮らして分かったこととして、電車を使っていると、頻繁とまでは言わなくても無視できないレベルでトラブルやキチガイと遭遇するということが挙げられる。
単純に母数が多すぎることもあるし、ストレス社会になっていることも要因としてあるだろう。
満員電車で軽い喧嘩が起こったり、酔っ払いがフラフラ周りの人にぶつかっていたり、セルフ車掌が走り回っていたりと、ヒリつきポイントは無数にある。
俺のような東京初心者はそういったトラブルに心の中で舌打ちをし、顔をしかめてその場から離れる。
しかし、あのオッサンは腹を立てたり面倒に思っているようには見えなかった。
本当に何も感じていないように、インプットすらしていないように見えた。
街中で他人を完全に認識の外に置き、周りで何が起ころうとも全てこの世は事も無し。
自分一人しかいない世界。究極の「無」。
究極の「無」の中にノイズが走ったとき、それに動ずるでもなく、スマートにノイズから離れる。
そうすることが本能として決まっていたかのように。
オッサンが本当にそんなこと思っていたかは別として(※当然全て自分の妄想・邪推である)、そのような境地があるとすれば純粋にカッコイイと思った。
どれだけ瞑想したら究極の無にたどり着けるのだろう。
実際、満員電車で輸送される際、ストレスを最大限減らす方法はイヤホンをして目を閉じて瞑想し、感覚をできる限りシャットアウトすることだと思う。それくらいは実践できている。
ただ目の前でトラブルが起こり、自分に牙が向けられたときに動揺したり怒らない自信は残念ながらない。経験値が足りないのだ。
「無」とは何か?その境地にたどり着けるにはどうすればいいか?
この究極的な問いに、東京という非人間的な都会で長年過ごしてきた方なら一つの解を示せるのではないか。
コンクリートジャングルの隙間でそんなことを考えた。